島之内教会たより -2014年6月第25号発行-

「完全な喜び」

牧師 木戸定

島之内教会では、前任者大門義和牧師の時代から毎週の礼拝において、「平和の祈り」を祈っています。会堂の入り口にも掲げられており、よく知られた祈りですが、この祈りを祈りながら、わたしは聖フランシスコ(1181頃〜1226年)とその弟子レオーネとの会話を思い出すことがあります。

J.J.ヨルゲンセン著「アシジの聖フランシスコ」(平凡社水野藤夫訳)にその全文が記されていますが、紙面の都合上一部分しかご紹介することができません。

フランシスコは、ある冬の一日、兄弟レオーネとペルージアからボルチウンクラへ旅をしました。その道中、二人の間で、完全な喜びについてのやりとりが行われます。たとえば、フランシスコはレオーネにこう言います。

「おお、兄弟レオーネよ、わたしたち兄弟が話し方をわきまえて、不信の者が全部キリスト教徒に改宗しても、完全な喜びはそこにないことを、よく銘記しなさい。」

私たちは教勢があがることを願い、礼拝出席者が増え、信仰を告白して洗礼を受け、教会員となってくださる方が増えれば嬉しいです。ましてや不信の者がすべてキリスト教徒になれば、それほど大きな悦びはないと考えます。しかし、フランシスコは、そこに完全な喜びはない、と言うのです。

では、どこに完全な喜びはあるのでしょうか。

「わたしたちはこうしてボルチンウンクラへ向かっているが、雨にびしょぬれになり、寒さにかじかみ、道の泥にまみれ、飢えに苦しんでい、修道院の門をたたくと、門番が出てきて、腹を立て『だれだ』という。こちらは『二人の修道士です』と答える。するとこうだ。『うそをつけ、追いはぎだろう。うろつき回っては人のものをかすめ、貧者からほどこしをひったくる奴らだ。さっさと行っちまえ!』門番はそういって門もあけず、空腹のわたしたちを外の雪と水と寒さの中に、ほったらかしておく。日が暮れる。そんな時に、わたしたちはそんな悪口や悪意や取扱いに耐え、がまんして、怒ったり不平をならしたりせずに、この門番はわたしたちのことを見通していて、彼にそういわせたのは神である、とへりくだって愛情をもって思う時―おお、兄弟レオーネよ、いいかね、これこそ完全な喜びです。」

どうして、それが完全な喜びなのか分かりません。フランシスコは、その答えをこんなふうに語っています。「だから、兄弟レオーネよ、・・・自分自身に勝ち、キリストのためにあらゆる苦しみ、不正、恥、不快に耐えることです。・・・それはわたしたちのものではなく、神からのものです。」つまり、どんな厳しい試練にも忍耐強く耐え、キリストの苦難を思い、キリストへの愛のために苦しむことができることは、神さまからの賜物であるということであり、それをいただくことができること、それこそ完全な喜びであるということでしょう。

キリスト者として長年生きてこられた人も、そうでない人も、それぞれに信仰者ゆえに耐え忍ばなければならなかった試練は誰にもあるはずです。そして、これからもそんな試練に満ち溢れた茨の道を歩んでゆかなければならないでしょう。できることなら試練はないほうが良いと思ってしまいます。しかし、本当はそうではないのです。厳しい試練に遭遇するからこそ、そこで賜ることのできる神さまの大きな恵み、完全な喜びがあるのです。

平和の祈りも自分の力では生きることはできません。それができるとしたら、それは神さまの恵みです。

神さまの恵みの御手に導かれて、主の御後にしたがってゆきましょう。

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「島之内教会と私」

八尾喜光恵

私は1952年12月21日にフリーメソジスト岸ノ里教会にて畑野基牧師から洗礼を受けました。動機は眞に不謹慎で、高校のクラブ関係の書類を作成するために度々牧師の事務所をお借りしておりましたので、申し訳けに洗礼でも受けようかと思いました。

その後、高校2年生の終りから高校3年生の初めにかけて肺結核のための静養中に八尾繁(後の夫となる人)が所属していた島之内教会に、私の許可なしで私を島之内教会に転会しておりました。

1961年に西原勇牧師司式にて八尾繁と結婚し、1963年に長男、1966年に長女を出産し、育児に専念しておりました。

1987年、八尾繁が胃癌のため召天しましたが、夫の療養中に西原勇牧師夫人の恵さんから、「神様はその人に一番良いと思うことをして下さる」と云うお言葉をいただきました。私は苦しい時でもそのお言葉が励みになりました。

夫が50歳で召天し、その後、私には大変苦しい時期もありましたが、いつもそのお言葉を忘れずに頑張ってきました。

私は60歳までは、いつも、「神様、助けて下さい」とお願いすることばかりでしたが、今では何事にも、「神様、ありがとうございます」と云えるようになりました。本当に感謝です。

もしあの時に夫が島之内教会に私を転会させてくれていなければ、きっと信仰から離れてしまっていたと思います。

今、私が島之内教会にあるのは、神様が夫を通じてご計画くださったのだと思うと本当に感謝です。神様、本当にありがとうございます。

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「私の寝る前の賛美歌」

川島信一

私は、以前から寝つきが悪く、病院で軽い(と自分では思っています)神経安定剤をもらって寝る前の飲みますが、なかなか寝付けません。困ったのは、寝る前のお祈りをすると緊張するためか、眠れなくなってしまうことです。

そこで、数年前から、お祈りを短くして布団にもぐり込んで賛美歌を口ずさむことにすると、何とか寝れるようなので、今もやっています。

今、口ずさんでいる賛美歌は以下のものです。

(1)I-391〜51、日くれて四方はくらくわがたまはいとさびしよるべなき身のたよる主よともに宿りませ。

この賛美歌は、私が名古屋の居る自時分(1946〜51年)、父が事故でなくなり、家族が大阪に帰り、私一人会社の寮に居た頃、夜の焼け跡の中の道を、この賛美歌(たしか1番だけだったと思います)を歌いながら、金城教会の聖書研究・祈祷会に通いました。私の教会生活の原点のようなものです。

しかし、寝る前に口ずさんでいるうちに、この賛美歌は、人が生きて行くすべての時に、「主よ共に宿りませ」と祈って歌うものだと気付きました。以後、5番まで歌うことにしています。

(2)II-80〜1み言葉をくださぃ、 降りそそぐ雨にように、恵みの主よ飢えと渇きに、くるしみうめき、やみ路さまよう、いのちのために。

この賛美歌は、「み言葉をください」との最初の言葉にひかれて歌ってます。みことばをうけているようには思えない私の願望だと思います。

(3)I-951〜2わが心はあまつ神をとうとみ、わがたましい、すくいぬしをはめたたえてよろこぶ、数に足らぬ、はしためをも見すてずよろず代までさきわいつつ、めぐみたもううれしさ。

この賛美歌は、2番の「数に足らぬ・・・・・見すてず」の歌詞にすがって選びました。1番は、私のような弱い信仰ではとてもという思いですが、これをとばしてはいけないと考え歌っています。

(4)II-4051〜2かみともにいまして、ゆく道をまもりあめの御糧もて、ちからをあたえませ(くりかえし)また会う日まで、また会う日まで、かみのまもり、汝が身を離れざれ荒野をゆくとこも、あらし吹くときも、ゆくてをしめして、たえずみちびきませ。

この賛美歌は、告別式などでよく歌われますが、あるとき、ふと、これはお別れの賛美歌ではない、人が、一日一日を生きていく中で、歌うものだと気付きました。

(5)II-202友よ、また会う日まで、シャロンシャロンめぐみの主まもりたもうシャロンシャロン

短い賛美歌ですが、コーヒーハウス「1階のトイレの前のホワイトハウスで開かれていた」の終わりにみんなで歌たものです。何故か私の心に残っています。

私は、寝る前の賛美歌の終わりに、「めぐみの主まもりたもうこころ安すく」と、読み替えてずさみ、眠りにはいります。

この形になるまでに、10以上の賛美歌を差し替えて口ずさんできました。始めから続いているのは、I-39とII-202だけです。1番から終わりまでうたったのは、39とあと一つだけだったと思います。しかし、時間が長くかかるので、寝るのが遅くなったときは途中をカットしたりします。

賛美歌は作られた信仰の先輩の心のこもっているもの。つまみ食いはいけないと思うのですが。私はどうも、その時々に、自分にとってこころよい賛美歌のしかも都合のよい箇所を選んできたのではないかと考えてしまいます。

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「海の魚、空の鳥、野の花」

黒田正純

宮沢賢治の詩集「春と修羅」のいくつかの詩に、林光さんが作曲した合唱音楽を練習している。

その中の「グランド電柱」は、花巻グランド電柱の百の碍子に集まる雀掠奪のために田にはいりうるうるうると飛び〜素敵なフレーズが、まだ続くが、詩を読み、歌うことを通して宮沢賢治の世界を味わっている。

私は、竹田城のふもとの田舎の町で育ったので、子供の頃、グランド電柱の碍子に集まる雀は、見慣れた風景であった。鳶がピッコロの鳴き声を挙げて、高い空を旋回した。

大阪、河南に住んで32年、最初の頃、庭先に沢山の雀が来て、餌をついばんでいた。10年以上前から、ついぞそんな雀の姿も見なくなった。もちろん鳶の旋回も空に見えない。

人間の生活の影響もあるのだろう。美食礼賛で、海の魚を獲り尽くし、そのことを罪にも感じなくなった。この地上の最大の掠奪者は、たぶん人間なのだと思っている。

人間は、人間本位に生きている。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。」

信仰を通してこの言葉を与えられたのは幸いであった。世の動きにならい、おいしい食を求めたし、華やかな衣装に必要以上、心奪われることも確かにあった。マタイ福音書の主イエスの言葉に、心の重荷を少し軽くさせて戴いている。現実を生きている私自身、時として、底の見えない欲望に心が囚えられるのだ。やはり人間は、人間本位で目が曇っている。ガリラヤの春の野、空に鳥が舞い、静かに咲き出で始めた花々に囲まれて、語られたのであろう、主の言葉を、老いに向かう私は、大切な宝として心に受けて、日々の苦しみ、喜びに出会いたいと思っている。

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「新緑の季節の新たなスタート」

河野まり子

大阪から車を運転して奈良へと阪神高速を走っていると、車の真正面に生駒山が目に入ってきます。2月頃まではその山並みは枯れた薄茶色だったのに、最近は日を追うごに薄い緑へと変化して美しい色合いを呈してきます。もう少し季節が進むと緑の深さが増して目を楽しませてくれることでしょう。毎年、木々が新しい芽を吹き出すこの季節には自然界の生命力を感じ、新しい命が創成されていることを身をもって感じます。

島之内教会も新しい年度を迎え、今年より新たに木戸先生をお迎えしての教会生活がスタートしました。私たちの信仰生活がより豊かになるように願ってやみません。

今日は木戸先生が就任されて初めて「聖書を学ぶ会」に参加しました。

詩篇4章2節〜8節まで。第1節に聖歌隊の指揮者によって琴にあわせてうたわせダビデの詞、とあるので質問したところ

昔、神殿のあった頃には何らかの楽器で伴奏を伴い朗唱したとのことです。

ヨーロッパの教会ではカソリック、プロテスタントを問わず、聖句を節を伴って朗唱する場面を映画や実際の教会で見聞きしました。

ドイツ、フランクフルトの郊外の古い教会でバッハの教会カンタータを演奏する機会がありました。演奏は日曜日の午後からだったのでメンバーみんな午前中の礼拝に参加しました。その教会では10人くらいの男子(10代〜70代)の聖歌隊によって古い聖歌がアカペラで歌われ、古い石作りの教会にまるで天上からの歌声のように響き、何と美しい!と感銘をうけました。また牧師も節をつけて何かを朗唱されていたのを覚えています。

「神々と男たち」という映画では、フランスからアルジェリアに伝道で派遣された修道士たちが日々の祈りを朗唱していましたが、この場面も神への祈りが私にはより聖的に感じました。木戸先生のお話では映画「シンドラーのリスト」でもユダヤ人たちが礼拝の折に、互いに聖句を節をつけて交唱する場面があったとか、私もこの映画は2,3回見ているのに記憶にありませんでした。もう1度見てみなくては。

音楽がキリスト教に深くかかわっていることは音楽史で明らかです。私の経験した礼拝での音楽は今のところクラシック音楽のジャンルのみですが、アメリカの黒人の教会ではゴスペルが神を賛美する音楽として歌われているし、先日韓国留学生ジョン・ユンジさんに聞いたところでは、韓国の教会ではオルガンだけではなくもっと他の楽器もいろいろ演奏してにぎやかに音楽が礼拝に取り入れられているそうです。そういう礼拝の音楽も一度機会があるなら聞いてみたいと思いました。

ある音楽家は「私は神さまのために音楽の演奏をしている」と言ってました。

私自身はそんな大仰な思いではないですが、神様の賜物をいただいたという思いでこれからも音楽に携わり、その感謝の気持ちを信仰生活に反映できればという気持ちです。

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「編集後記」

(河野まり子、和田純子)

第17代牧師として、木戸 定牧師をお迎えし、島之内教会だより25号を新たな装いで発行することが出来き感謝です。6月8日には牧師就任式が執り行われ、新しい教会の歩みが始まります。島之内教会に集う群れが良き指導者を与えられたことを感謝し、教会が主の御心にかなう祈りの家となるように、心をひとつにして、神の恵みを喜びほめたたえる信仰生活を送りたいと願っています。引き続き島之内だよりが発行できるように、みなさまからの原稿をお待ちしています。

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