島之内教会設立を支えた新島襄と八重

 

新島 襄にいじま じょう

新島 襄

1843年、上州・安中藩江戸屋敷にて、藩の祐筆・新島民治の長男として生まれる。幼名・七五三太。
幕末の鎖国の時代に漢訳聖書と出会い、1864年密出国してアメリカ合衆国にわたる。留学中にキリスト教の洗礼を受けてアーモスト大学、アンドーヴァー神学校で学び、日本人として初めての学位(学士号)取得者となる。伝道団体「アメリカン・ボード」の準宣教師となり、また勉学や視察を通して教育の重要性に目覚める。
日本に帰った後の1875年に同志社英学校を設立、「同志社大学設立の旨意」では「一国の良心」を育成したいと宣言する。

逸話として語り継がれるのが新島襄「自責の杖」事件である。学校の運営に異議を唱えて授業ボイコット(無断欠席)を行った学生への校則違反の処罰をめぐり思い悩んだ新島は、1880年4月13日朝の礼拝で壇上に立つ。集まった生徒を前にして「今回の集団欠席は、私の不徳、不行き届きの結果起こったことであり責任は自分にある」と話し、突然右手に持っていた杖で自らの左手を叩き始めた。何度も何度も激しく打ち付けたことにより手は腫れ上がり杖は二つに折れ、やがて三つに折れ破片が飛び散った。

女子教育にも情熱を注ぎ、同志社女学校(のちの同志社女子中高・女子大学)をはじめ全国で多くの女子教育機関の設立に力を尽くした。大阪では、1878年の岸和田伝道に八重夫人を帯同し、女子教育の重要性を説き、女子だけの集会を成功させる。 その後も同志社は岸和田伝道を継続し、同地より多くの学生が同志社に入学した。

宣教師として教会設立等にも尽力する一方で、同志社からは多くの牧師、伝道師等を輩出させた。1882年には島之内教会・初代牧師に熊本バンドの上原方立を派遣し、設立式に出席した。会堂の捧堂式に於いては新島襄司式により聖餐式が執行されている。他の教会においても聖晩餐や洗礼式の司式、講義所での説教会の説教等の記録も残る。

1890年、療養先の大磯で、八重の腕を枕に「グッバイまた会わん」と別れを告げて召天する。遺体は京都東山・若王子山頂(現同志社墓地)に埋葬される。

新島 八重にいじま やえ

新島 八重

1845年、会津藩の砲術師範・山本権八の子として誕生する。会津戦争(鶴ケ城籠城戦)では、断髪・男装して家芸であった砲術をもって身を投じ、両刀をおび西洋式銃を持って戦場に出たことを回想録に記す。

戊辰戦争後は京都府に出仕していた兄・山本覚馬のところに身を寄せ、京都女紅場の権舎長・教道試補となる。ここで茶道教授として勤務していた千猶鹿子(裏千家13代千宗室の母)と出会い、これがきっかけで茶道に親しむ。裏千家では女子教育に茶道を取り入れるよう進言したのが八重であると伝わる。

1875年、新島襄と結婚する。欧米流のレディファーストが身に付いていた新島襄と、男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦であった。新島襄はこの時期にアメリカの友人への手紙で「she dose handsome」と八重を紹介する。これを受けて「ハンサムウーマン」として八重を取り上げたNHK番組「歴史秘話ヒストリア」により、2013年、大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる道が拓かれた。

新島襄が校長の同志社女学校では、開校期には礼法の教員として女子教育に参加し、母・山本佐久は「京都ホーム」(寄宿舎)の舎監となった。八重は下記の山岡姉妹の帰郷に同行して大阪伝道にも従事した。

1890年に新島襄が召天した後は、篤志看護婦や茶人・新島宗竹として活動し、1904年には勲六等宝冠章を叙勲された。皇族以外の女性としては初めてのことである。1932年、新島邸(現新島旧邸。新島会館隣り)にて生涯を終え、同志社墓地に新島襄と共に眠る。

上原 方立うえはら まさたつ

上原 方立

1860年、肥後藩士の息子として生まれる。熊本藩の藩校伝習館および愛日堂で学び、1875年(明治8年)熊本洋学校に入学し、L・L・ジェーンズから英学を学ぶ。上級生の宮川経輝の勧めでキリスト教に入信する。

1876年1月30日に花岡山で宮川らと「奉教趣意書」に連署する。しかしキリスト教に入信したことで父母の怒りを買い帰郷するが、その後、熊本洋学校に復学する。熊本洋学校閉鎖に伴い、優秀な学生(後の熊本バンド)が大挙して同志社へ転校したが、上原もその一人であった。

1877年に同志社英学校に入学。在学中に若狭、摂津高槻、備中笠岡、越前福井などへ出張伝道する。当時の上原は「背丈高く"ジャイ"とあだ名された熱血漢」と記録されている。

1880年の新島襄「自責の杖」事件の際には、何度も自らの手を打ち付ける新島襄を上原が飛び出して抱き止め、泣きながら自責を止めるよう懇願した。

1882年、島之内教会の初代仮牧師に招聘される。1883年、東京府築地で開催された第3回全国基督教信徒大親睦会に参加し、新島襄、内村鑑三、津田仙らと共に演説者として登壇した。

1884年、按手礼を受け正式に牧師となる。山岡登茂を妻に娶った際には、数百人が参列する盛大な結婚式を挙げたが、2ヵ月経たぬ時期に腸チフス患者を熱心に看病したことから感染して急逝する。

山岡 登茂やまおか とも

山岡 登茂

1865年、岸和田伝道で新島夫妻を迎え入れた山岡尹方の長女として生まれる。一族より多くの牧師が輩出されており、叔父・田中兎毛は島之内教会第五代牧師、兄・邦三郎は初代・会津若松教会の牧師である。

山岡家では新島夫妻だけでなく徳富蘇峰・蘆花ら多くの学生をも世話した。

1878年、新島夫妻が岸和田伝道に来てから2ヵ月後に結成される同志社への学生団の中に女性として参加する。また妹・京も同志社女学校で共に学んでおり、後に初代校友会会長となる熊本バンドの加藤勇次郎に嫁いだ。 二人は京都ホームと呼ばれた寄宿舎にて生活し、勉学に励んだ。

1882年、同郷の田代初とともに同志社女学校第1期卒業生の総代となり、女子教育を受けた自らについて「責任」と題した卒業演説を行う。

1884年、上原方立との結婚式で八重の介添を受けてウエディングロードを歩む。 しかし結婚後まもなく上原を亡くし、新島襄より弔文と「咲初て 未タ(未だ)日も経さる山桜 今朝の嵐に 散り果てぬとは」の和歌を送られる。

高梁・順正女学校や梅花女学校で音楽、英語の教員を務めたのち、新潟・新発田教会に派遣された新島襄の教え子・原忠美に嫁ぎ2男1女を授かる。結核の原を支えながら、苦しい生活を送った頃を「神の御手に導かれた時期」と述懐している。原を亡くしてからは神戸女子神学校や同志社女学校の舎監として働き、息子・原忠雄が牧師となってからは彼を助けた。1946年、召天し、原忠雄が牧していた綾部丹陽教会で葬儀が営まれた。

 

写真提供: 同志社大学  (自責の杖は、「新島八重-だんじりの町に蒔かれた一粒の麦-」より)

制作 島之内新島勉強会

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