島之内教会たより -2014年9月第26号発行-

「隣人を自分のように愛しなさい」

牧師 木戸定

「人生に成功する秘訣」「お金がたまる処世術」「百万円からはじめる財テク」、・・・そんな書物は書店の店頭によく並んでいますが、「隣人を愛する秘訣」という本を見かけることはありません。むしろ、「愛」という言葉が使われるのは怪しげな本に多いようです。

しかし、律法の専門家がイエスのもとを訪ね、揚げ足を取る意図があったとしても、「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたとき、イエスは神を愛することと隣人を愛することだとお答えになりました。人間が本当に救われるには、どうしたらいいのか、その質問に隣人愛に生きることが大切だ、と言われたのです。しかも、イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言っています。そんなことできますか。イエスは、できないことをしなさいとおっしゃったんでしょうか。

イエスの教えの中核は「愛」であり、キリスト教は愛の宗教とも言われます。とすれば、どうしたら人を愛することができるのか、敵を愛することはどういうことなのか、もっともっとそれについて書いた本があってもよさそうなものですが、浅学にして私はそういう本にあまり出会ってきませんでした。

しかし、イエスの言葉をよく見てみますと、そのヒントが隠されています。つまり、隣人を愛する前提として自分を愛しなさい、と言われているのです。

自分を愛するとは、自分が好きになればいい、自己嫌悪を止めなさいということではありません。むしろ、愛する前に自分というものを知るということが必要です。ある心理学の本に「自分」には4つの側面があると書かれていました。(1)私も他人も知っている「自分」(2)私だけしか知らない「自分」(3)他人は分かっているが私は気づいていない「自分」(4)他人も私も知らない「自分」。こんなふうに説明されてなるほどなぁ、と思いませんか。

イエスが弟子たちに、こう言われたことがありました。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(マルコによる福音書8章36節)つまり、生きている間に、名誉や財産、地位や権力など、自分の欲しいものは何でも手に入れることができたとしても、「自分」がどいう人間であるかを知らず、自分を愛することができないまま人生を終えることになったとしたら、それほど悲しいことはないではないか、そんなふうに理解することができます。

「私は、どういう人間なのだろうか」と、一人部屋にこもって思いめぐらしたとしても、自分という人間がいかなる存在であるのかを知ることはできません。

しかし、たとえばこんなふうに考えてみればどうでしょうか。私は、どのような両親のもとで生まれ、育ち、どんな影響を親から受けてきたのであろうか。私が生まれた時代はどのような時代であり、その時代からどんな物の考え方、価値観を自分の考え方、価値観として生きてきたのであろうか。私は、これまで、どのような人生を生きてきて、どんな失敗をし、どんな成功をし、どんなことに喜びを感じ、また悲哀を味わってきたであろうか。そんなふうに具体的に焦点を定めて、自分を客観的に見つめてみるとき、「自分」というものの姿が見えてきます。そして、自分は残された人生をどのように生きてゆきたいと願っているのだろうか。世間が、こうすれば幸せになると言うから、そのように生きるのではなく、これまで生きてきた成功も失敗もある歩みの中から、ほかの誰でもない自分は、ほんとうはどう生きてゆきたいと願っているのだろうか、そう自分に問いかけ、答えを自分で見つけることが、ほんとうの自分に出会う一つのステップになるはずです。

友人・知人が「自分」をどう見ているのか、率直な意見を聞いてみることも大切です。耳の痛いこと、反論したり言い訳を言いたくなることをたくさん言われれば儲けものです。それがほんとうの自分を知り、ほんとうの自分に出会ってゆく一つの歩みだからです。

そして、そういう自分を受容し、そんな自分が周りの人から許され、じつは愛されていたんだ、という気づきが与えられる、そこから私たちは隣人愛に生きることができるようになるのではないでしょうか。「あなたの隣人を愛しなさい」とイエスさまの言葉を耳で聞いたり、文字を読んでいるだけでは隣人愛に生きることはできないのです。

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ンガンガ・イッポ

私たちは、ンガンガ・イッポとマリラと言います。2006年に結婚して間もなく、主は私たちに、日本を離れ他の国に行くようになると語られました。私たちはそのことについて祈り始め、また多くの神のしもべである人々から同様のことを告げられました。私たちにまだ子どもがいなかった時、主は夢を通して私たちに語りました。その夢の中では、私たちには男の子がおり、イッポは周りの人たちに日本を離れることを伝えていたのです。

2012年にマリラがオーストラリアのタスマニアに行ったときに祈っていると、私たちはフランスに行ってイギリス人とともに働くようになると主が語られ、また私たちの指導者であるチャールズから、翌年までに神さまが私たちに扉が開かれると神さまが彼に語ったと告げられました。

2013年に、フォーセット・グレアムとルーシ夫妻は、イギリスのリンダ・ハーディングに会いに行きました(彼らはワールド・アウトリーチと28/19ネットワークのメンバーで宣教師です)。また彼ら3人はパリに行き、イギリスの母教会からのサポートを受けてムスリムの間での働きをしているハンナという宣教師を訪問しました。

ハンナさんは独身で、ほとんどが仕事とビザを求めて来ている男性たちに伝道しているのを見て、夫婦の助けが必要であると考え、祈っていると、イッポとマリラ夫妻という名前が思い浮かびました。日本に帰国した彼らから、私たちにこの働きについて祈ってみてくださいと言われました。

私たちは時間を取って祈り、今までに神さまから語られたことをすべて思い起こし、これは神さまが開いてくださった扉だという確信が与えられました。

また、イッポがつい最近パリとブリュッセルを訪問して、その民族の何人かに会った時、その人たちとの深いつながりを感じ、この人々こそ神さまが私たちに弟子とするようにと召してくださった人々であると確信しました。

28/19は、未伝道の民族グループを弟子とするために様々な賜物を持った人々がともに働くネットワークです。

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「認識の歪みと完全な喜び」

暁キリ

この間、笑っていないのに「あんた今嘲笑いして、私を馬鹿にしたね」と些細なことで、友達に誤解されました。やってないことだから、しつこく指摘されてしまい、あまりのショックで久々に怒りと落ち込みを覚えました。

たまたま木戸先生に話を聞いて頂く機会がありまして、先生が静かに耳を澄ましてくれました。先生は「認識の歪み」って聞いたことがありますか?と質問して、説明をしてくれました。例えば、窓を開けた瞬間にビルの向かい側にパタッと窓を閉められたらどう思う?と聞かされました。「うん…、気持ち悪くなるかもしれませんね」と私は答えました。先生は「それが認識の歪みと言います。あなたが窓を開けるのも向かい側の人が窓を閉めるのもそれぞれの思いで取った行動だけど、タイミングや自分の勝手な考えで気持ちを左右されてしまいます。そして、あなたがやっていなくても、友達にそういうふうに取られてしまうのも認識の歪みと言えるかもしれませんね。」と言ってくれました。

先生の話を聞くと、ふと2014年6月発行の「島之内教会便り」に木戸先生の「完全な喜び」のワンシーンを思い出します。「旅で疲れきった聖フランシスコ達は、修道院で門前払いされても、あらゆる苦しみ、不正、恥、不快に耐えて、キリストの苦難を思い、キリストへの愛のために苦しむことができるのは完全な喜びであるでしょう。」と書かれていました。私には到底無理でしょうね…悪いことをしていないのに、あまりにも酷い仕打ちだと自分のことばかり考えてしまいそうだから。でもいつか私は主イエスをお手本にして、自分の話し方をわきまえて、不信のものが「さすがキリスト者だ!」と思ってくれて、キリスト教徒になってくれば、これほど嬉しいことがないと思います。中国には「損することは福である」と言う諺があり、よく考えれば厳しい試練に遭遇するからこそ、そこで賜ることの出来る神様の大きな恵み、完全な喜びかも知れません。

「認識の歪み」であっても、どんな悲しいことに遭っても、キリスト者であることを第一に考えてキリスト者にふさわしい行動をすべきだと改めて痛感しました。そして、その後「辛い思いをさせてごめんね!」と友達に心を開いてお詫びしたら、その友達と仲直りができました。

これからも主イエスの教えに従って、主イエスだけを見て、日々努力していきたいと思います。

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「夕暮れにも光がある」

上田一郎

ハレルヤ。最近強く示されたいのちのみ言葉「たとえお前が鷲のように高く昇り、星の間に巣を作っても、私はそこから、お前を引き降ろすと、主は言われる。」(旧約、オバデヤ4章)

有名な天満教会・春名康範牧師の「人生一寸先は光」も強い印象。

私の祖父上田貞治郎が、明治18年、初代上原方立(熊本バンド出身)より受洗しているので、島之内教会は私の心の故郷といえる。

堺ハゼ教会より転会して5年。私も86歳。新大阪北で20年目。自宅で休養中。駅近と回生病院の真ん前が高齢者にとって便利。私は関西学院大学経済学部OBで本年は 125周年「目を向け、明日を想う」

山路こえて一人行けど、主の手にすがれる身は安けし(旧讃美歌404番)。主にありて、日々、これ好日といえる。

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