島之内教会たより -2015年3月第28号発行-

心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る

牧師 木戸定

 2月16日、NPO法人淀川文化創造館シアターセブンで、映画『大いなる沈黙へ』を観ました。この映画を観るために長蛇の列をつくるほどの盛況ぶり、というマスコミの宣伝に踊らされたのか、映画館は閑散としていました。
  フランスアルプス山脈に建つグランド・シャルトルーズ修道院で暮らす男子修道士たちのドキュメンタリーです。彼らは「毎日を祈りに捧げ、一生を清貧のうちに生きる。自給自足、藁のベッドとストーブのある小さな房で過ごし、小さなブリキの箱が唯一の持ち物だ。会話は日曜の昼食後、散歩の時間にだけ許され、俗世間から完全に隔絶された孤独のなか、何世紀にもわたって変わらない決められた生活を」送っているそうです。そのような日々の生活が、礼拝の聖歌のほかには音楽はなく、ナレーションもつけられず、照明も使わないで紹介されていました。
  この映画製作の動機について、「今日の社会のように、かたちや結果に価値をおくのではなく、内なる精神に意味を求める日々、この沈黙にみちた、深い瞑想のような映画には、進歩、発展、テクノロジーのもとで、道を見失った現代社会に対する痛烈な批判と、今日の物質文明を原点から見直そうとする思いが根底にある」とチラシに書かれています。
  映画の中で、一人の修道士が「○○によって、神に近づくような気持ちになります」(記憶は正確ではありません)と言っていたことが印象的でした。
  たしかに、内なる精神に意味を求めることを忘れた現代社会は道を見失ってしまったと思います。だから、俗世間から隔絶された修道院にこもって観想(瞑想)の日々を送ることに意味があることかも知れません。
  しかし、俗世間のただなかで内なる精神に意味を求める日々を送ることにも大いに意味のあることだと思いました。

「心の清い人々は、
      幸いである。
   その人たちは神を見る」  (マタイ福音書5章8節)
と聖書にあります。

 あの修道士が語った言葉の背後には、修道院において観想と祈りによって心の浄化に努める求める日々の暮らしがあったと思います。しかし、修道院で暮らす人々はそれだけ志の高い人たちであり、それなりに心の清さのある人たちでしょう。それとは対照的に、俗世間はさまざまな人たちが集まっている世界です。裏切ったり、裏切られたり、そしてありとあらゆる誘惑があって、さまざまな欲望が渦巻いている場所です。自分の命を投げ出して事故や災害で助けを必要としている人たちを救助する人たちがいる一方で、「どうして、こんな酷いことができるの」と思ってしまうほど凶悪な犯罪に走ってしまう人たちが後をたちません。まさに天使のように心清い人たちから人間の皮を被った悪魔のような人たちまでが混在している場所こそ私たちが生きている世界です。
  そのような世界にふみとどまって、心を清くする信仰の道を歩むことは修道院で行うのと勝るとも劣らないほど困難なことであり、意味あることではないでしょうか。
  今、教会は受難節(四旬節とも言います)の中にあります。この季節になると、昔良く言われたのが「克己の生活」をするということです。キリスト教の伝統として断食が行われましたが、日本の教会では、この習慣は根づいていないように思います。克己という言葉もあまり聞かれなくなりました。
  辞書に「克己とは自分の感情・欲望・邪念に打ち勝つこと」とあります。意志の強さ、我慢強さを連想させ、難行・苦行を否定しきたキリスト教にふさわしくないとして廃れてきたのかも知れません。
  しかし、キリストに従う道を歩むためには、苦しい道を避けて通ることはできません。
  小林多喜二著『蟹工船』は、お国のためという大義名分のために、労働者たちが過酷な作業に従事させられる場面が描かれています。つまり、一部の資本家の利益のために我慢を強いられる姿が描かれ、資本家たちも相当なものだと思いました。
  ですから、「何のために苦しみに耐えるのか」、その問いは忘れてはならないことです。そのうえで、誰にとってもキリストに従う道を歩むためには、克己が必要であり、自分自身との戦いは避けて通ることはできないことです。
  また、克己というとどうしても「我慢」を思い浮かべてしまうかも知れません。しかし、どんな辛いことがあっても希望を捨てない心を育てることも、キレて投げ出したくなったり、落胆して諦めたくなってしまう自分自身との闘いの中から生まれてくるものです。御言葉を聞き、祈りの生活を重んじ、克己の生活に励むことは、俗世間のなかで、私たちが内なる精神に意味を求める日々を送っていることにほかなりません。

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感謝と希望

片山春美

去る2月15日の愛餐会では、先年2月14日に帰天致しました夫・基の記念会のような形で、ご出席の皆々様から交々思い出話を承り、感激致しました。
  基は九州電力の社員でございましたが、大阪の金山工務店で働かせていただくことになり、福岡から50余年前に一家で移って参ったのですが、それによりまして、祖父片山猪之吉が明治22年に伝道師として初めてご奉仕しましたこの島之内教会に、奇しくも加えていただくことになりました。ただ家内の私が、親の代からの日本聖公会(大阪城南キリスト教会)の信徒でございましたので、基の生前には島之内教会の聖日礼拝に、たった一度しか共に連なることができませんでしたのを、今残念に存じております
  それで教会創立130周年の記念誌上で、バザーやファミリーコンサート(フルートを吹いておりますが、有難いことに写真に音は写りませんので)での夫の姿を見るにつけ、私は学校勤めで忙しくしていたとはいえ、せめてイベントの折にでも、寄せていただくべきであったと悔やまれてなりません。皆々様にはお世話になりっ放しでございましたが、ただ基は一級建築士でございましたので、教会の改修や修理のご相談の折には、多少のお役に立ったのではないかと想像致しております。
  長い歴史と伝統ある島之内教会が、木戸定先生のリーダーシップのもと皆々様の素晴ら
しき一致ご努力により、この大阪の中心部にありまして、益々のご発展を遂げられますよう、祈らせていただきます。有難うございました。

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「神さまの仕事、美しい4月」

黒田正純

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」
                           第2コリント 5章17節

毎年の事ですが、復活祭の季節が近づくと、私は、洗礼を受けた1963年の時の気持ちを思い出して、懐かしさの混じった胸の高鳴りを禁じ得ません。
復活祭に洗礼を受けて以来、私の人生の年の区切りは、イースター中心になりました。復活は、神の仕事と思っていますので、受洗という厳粛な事実の中で、私は神の仕事、恵みに私は加えられたと感謝しました。それは、私の修業でもなく克己でもなく、面壁八年の悟りというような求道と忍耐、人間の業ではないのです。
  神の復活の恵みの中に移されて、52年になりました。あの日は、本当に美しい4月の一日でした。太陽の光が、白く純粋に美しく輝いていました。そういう一日が備えられたことは、何より素晴らしいこと、19歳から20歳にかけて、私が囚われていた死の思いは消え去りました。後年、自殺防止の仕事に関わったのも、私自身の経験から、自死の悩みは、他人事に思えなかったからです。
  洗礼を受けて後も挫折や苦難は、続きましたが、基調は、音楽で言うところの長調です。時に短調の暗い響きの中に置かれるとしても、復活以後の長調の恵みの中にいる事を忘れることはありません。私は、モーツアルトのオペラが好きでよく聴きます。色々な声 部でモーツアルトが歌っていると気が付いてからは、一層聴くようになりました。モーツアルトのオペラの基調は、大体が長調です。美しく歌い上げます。「魔笛」「フィガロの結婚」「ドンジョバンニ」これらの三作は、逃がせません。35歳で世を去り、「レクイエム」のラクリモーサ(涙の日)で筆を折ったというほど、心と体は、病で疲れていたのに、彼のオペラは、私に喜びと自由を与えてくれる力強い長調です。暗さの中に身を置いて、なぜあの美しい歌が生まれたのか。不思議です。彼が天才と言うだけでは説明しきれないものがあります。私は、モーツアルトは、神さまの仕事、神さまの恵みである復活を信じていたと思っています。
多くの苦しみ知る程に、神さまの恵みの豊さを待ち望むのでしょうか。神によって復活の恵みの中に身を置いて戴いて、私は、人生を生きています。イースター(復活祭)は、あらためてそのことを私に教えてくれるのです。

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「奏楽のご奉仕をさせていただいて」

橋本晶子

私が島之内教会を初めて訪れたのは高校2年生の夏休みでした。それは大学の受験のために教会のオルガニストである土橋薫先生にレッスンを受けるためでした。大きい教会に行くのはほぼ初めてで礼拝堂の大きさに圧倒された記憶があります。
  その後無事大阪音楽大学のオルガン科に入学し、結婚式の奏楽を頼まれ初めて島之内教会のオルガンを人前で弾かせて頂いたのが大学3回生の時です。それまで仕事という形で演奏する機会が無かったのでとても緊張したのを覚えています。
  それから年に数回礼拝の奏楽にも携わらせて頂くことにもなりました。前奏・後奏はなんとか弾けても意外と讃美歌が難しく、音は単純でもブレスや皆の歌を聴きながら弾くのがとても難しかったです。皆さんには歌いづらかったりご迷惑をおかけしたと思いますが、当時牧師だった西原明先生を初めとして、教会員の皆様にいつも暖かく迎えて頂き何とか奏楽を続けていました。
  そんな中、それまでお世話になった西原先生が東京に行かれ、牧師先生が交代になり教会の雰囲気もガラッと変わりました。奏楽に対する批判や教会員の方もどんどん変わる中、正直どうなることかハラハラしつつ毎回奏楽をしていました。このまま続けさせて頂いていいのかな、と思いつつ一つの転機となったのは、出産でお休みを頂いていた時に中島絢子先生に「子どもを連れてきてもいいから又弾いて欲しい」「橋本さんの奏楽を楽しみにしている人もいる」との言葉です。この言葉には目から鱗、本当に驚きでした。そして私の演奏を聴いてくれている人がいるんだな、と初めて実感した瞬間でした。それからは少しこころが軽くなりました。
  そして教会に来ていて一番良かったことは、次男が1歳半で重い病気にかかり入院した時です。付添いのため病院に通う日が2か月間続きました。毎日病院に通う日が続く中、その時牧師をしておられた大門先生からお見舞いを頂いたり、皆でお祈りして下さったことは本当に力になりました。ちょうど脳の手足の部位に膿がたまったために右の手足が一時全く動かなくなり、お座りもできなくなった姿を見るとショックで毎日病院へ行くのもつらかったのですが、皆さんも一緒にお祈りして下さっていることを思うと頑張って病院に通い、リハビリに励むことができました。本当に感謝の気持ちで一杯です。ありがとうございました。
  20歳の頃から奏楽させて頂いているので今年で20年以上になります。初めはこんなに長い間続けるとは思っていませんでした。教会の移り変わり、素晴らしい牧師先生や人々との出会いなど色々ありましたが、長い間奏楽に携わらせて頂き感謝です。
  はじめは奏楽だけのために教会へ行っていたのが、今や礼拝や皆様との交わりが私のこころの支えともなっています。
これからも一奏楽者・教会を訪れているものとして、皆様と共に礼拝を守っていければとこころより願っています。

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「歌  壇」

上田一郎

朝日TV・ABC 「ココイロ島之内」教会のめぐみの姿、見るもうれしく又たのし

 人生はタイタニックなり、波高し、沈まんときに、主のみ声

 長い歴史と伝統に苦難のときあり、破れあり、主を仰ぎみて静かに祈る

 大阪教区の主のめぐみ、十字架栄光、若い教会共に祈りて交わり、育ち行く

編集後記
島之内教会百年史の明治23年(p31、34)に片山亥之吉伝道師の名前を見つけ、歴史を通して神様が働かれると感じました。また原稿を下さった皆様それぞれの歩みの上に神様の御手が働いていることを思わされます。木戸先生を迎えたこの1年の教会の歩みを感謝します。
「神は豊かな憐みにより、私たちを新たに生まれさせ、生き生きとした希望を与えてくださった。」(Tペト1:3 )
主の復活の喜びを心から祝いたいと思います。
  (河野まり子、和田純子)


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