牧師 木戸定
わたしにつながっていなければ、実を結ぶことはできない
ヨハネ福音書15章4節
「そんなに冷たい目でみなくてもいいじゃないの!」
公私ともにあわただしい日々の生活のなかで、偶然出会った友人につい愚痴をこぼしていた時、そう思いました。
しばらく沈黙があり、彼は言いました。
「○○さんが悪いとか、○○さんがもっとこうしてくれたらよかったとか言っているけど、本当にそうなの?それって、被害者意識じゃない?」
ハッとしました。「私は、こんなにも頑張っているのに、誰も分かってくれない」そんな気持ちであったことに気づかせてくれました。
J・ベイリ著『朝の祈り・夜の祈り』にこんな祈りがあります。
「神よ、きょうわたしの生活をとりまくすべてのものを用いて、罪の実ではなしに、きよい実を結ばせることを教えてください。
失望を忍耐の契機として用い、
成功を感謝の契機として用い、
不安を不屈の契機として用い、
危難を勇気の契機として用い、
非難を忍苦の契機として用い、
賞賛を謙遜の契機として用い、
娯楽を節制の契機として用い、
苦痛を堅忍の契機として用いることを教えてください。
被害者意識に陥っている時、たくさんの人たちに支えられ、助けられている現実が見えなくなってしまうものです。あの人もこの人も私に不利益をもたらす敵のように見えて、世界のありのままの現実が見えなくなってしまうものです。また、ベイリの祈りは「自分の祈り」として祈れないと何度も思うことがありましたが、この時ばかりは心に沁みました。自分の意に反して誰かを傷つけたり、反対に傷つけられたりします。そういう世界に誰もが生きています。そして、そのなかで被害者意識に陥ったまさにその時こそ、それを堅忍の契機として用いることができますように、やさしさを忘れず、たくましく生きてゆくことができるように支えてください、と祈ることが大切なのではないかと気づかされました。その祈りが聞かれるとき、私たちは良い実を結ぶことができるのだと思います。
黒田 俊宣枝
私の母、青木操は大正5年生まれの99才です。洗礼を受け、島之内教会信者として活動しておりました。今は、母は介護施設に入っており、週2回程私は会いに行っております。
会いに行くたびに、「教会へ行きたい、みんな元気にしているの? あの人はどうしているの?」一人一人しっかりと名前を言って、「会いたいなぁー。」と言っております。耳が遠くなってしまいましたが、顔を見るだけでも心が休まるだろうなあと。
教会へ行きたいけれど、車イスなので皆さんにご迷惑をかけてしまうのが心苦しいと言っており、なかなか現実的には難しい状態です。
6月21日(日曜日)、施設内の場所をお借りする事が出来、私の母は、孫9人とひ孫達5人、孫の配偶者、と共に百寿のお祝いをしました。みんなでお昼ご飯を一緒に食べ、母の似顔絵を描いてもらった大きなケーキにロウソク100本をつけ、火を灯して吹き消したそうです。
母は、孫達がこんなにたくましく、やさしく成長してくれた、と感謝の言葉と共に熱い涙を流しながら私に語ってくれました。私も、とても嬉しく感動しました。
教会にはなかなか来れなくとも、心はいつも島之内教会を想っています、といつも言っています。
上田一郎
奄美大島・喜界・開拓伝道55周年 福井二郎夫妻を偲ぶ
使徒8章26節
昭和20年8月敗戦まで、満州東北「熱河宣教」で有名な福井二郎牧師(山口県生まれ)が昭和31年、奄美名瀬・徳之島への開拓を始めた。
福井は、OCC大阪朝祷会に年2回来会し、現地報告と募金を募る。
彼は「仕える人生は石けん」と語り、石けんは自分の体をすりへらして隣り人を清め、美しくしていく。「喜界島にぜひ来ませんか。」当時33歳、息子のような私に声をかけてくださり、「ハイ」と応えて、昭和35、36、37年間と3回も巡回問安、聖書贈呈、何と正月休みに生徒全員がわざわざ登校して贈呈式、バイブル・メッセージ、3年間で中学10校、喜界高校他刑務所・病院、さらに沖縄まで出かけ、5千冊を配布した。
大阪からSL夜行で鹿児島まで20時間、さらに単発プロペラ機が3時間、牛や豚が放牧の喜界空港にやっと着陸した。電気は昭和31年USAの指導で開通。東京大阪におくれること80年。昼は停電で、夜のみ点灯の僻地。
喜界から奄美本島へは汽船で荒天暴風の中大揺れ3時間、まさに「ガリラヤ湖のモーレツ嵐」を体験。山また山、道けわしく難路で、ハブ毒へび50万匹と言われる危険地帯。聖書300冊の重い荷物を持って一日2回の満員バス停にむかったところ、フシギにさっと備えられたタクシーが「古仁屋」(瀬戸内)まで帰るので、高額料金のところバス代のみでOKとラクラク。いたるところで主は彼らと共に働き、それに伴うしるしによって(マルコ16章20節)の大きなめぐみ、祝福を拝した。ハレルヤ。
近藤淑子
同志社の創立者新島 襄の有名な「自責の杖」の中で、襄が杖をもって杖が折れるほどに自らの掌を打ちつづけた時、飛び出して、襄を抱きとめた学生がいました。その学生が後の初代島之内教会の上原正立牧師でありました。上原牧師は御結婚後一か月程で、病のために亡くなられましたが。それで、初代牧師登茂夫人とは、どのような方であったのかと思い、調べましたので、記させていただきます。(以下敬称略)
旧姓山岡登茂は、岸和田藩の家老職山岡伊方の長女として誕生しました。(岸和田藩では、藩主の依頼により新島襄が伝道を始め、旧藩士の間に多くの信者が出た)
登茂は同志社女学校に入学し、明治十五年五名の同級と共に、第一回卒業生となる。卒業二年後に、上原方立牧師と結婚する。(結婚式は大阪教会宮川経輝牧師と新島八重夫人に導かれて挙行された。)
しかし上原方立牧師は、一か月後に、病のために亡くなってしまった。
登茂は、そのような悲劇を乗り越えて、岡山の順正女学校と後に、大阪の梅花女学校で「英語」と「音楽」の教師として働く。それは彼女にとって同志社女学校時代に習得した二つの能力であったが、同じく学生時代に身につけたキリスト教の価値観を支えに、夫亡き後も、自立して生きる道となっていた。
その後、明治二十五年同志社神学校出身の原忠美牧師と再婚する。しかし、結婚して五年もたたない中に夫は結核となり、結婚十五年の後に亡くなってしまう。彼女はこう述懐している。「特に最後の八年間、夫が病のために牧師引退後は、病人の夫と、子ども三人を抱えて、まさに神に養われた年月であった。」また、「『何よりも先ず神の国と神の義を求めなさいそうすれば、これらのものはみな加えて与えられる』という聖句にすがって生きる日々であった。でも、そうすると不思議なことにみ言葉が実現される毎日であった。」
その後、登茂は、神戸女子神学校、後に、同志社女学校の舎監として働き、そのような形で自活しつつ、彼女が持っている影響力を発揮する道が備えられていたことも神の恵みであった。息子が長じて牧師になったときは、教会で一緒に暮らし、人に知らせず、困っている人達の世話をよくした。貧苦の中にあっても、他の人々に対して、キリストによる愛を実勢するという一生であった。
登茂は昭和二十一年四月八十二歳で永眠した。息子である原忠雄牧師の牧していた綾部丹陽教会で葬儀が営まれた
以上、簡単なことしか書けませんでしたが、信仰者として、精一杯生きられた登茂夫人のことを調べる中に、私にとって、うれしい発見がありました。ご子息原忠雄牧師は、六十余年前に、私が梅花に在学中に教えを受けた「宗教」の先生だったのです。原先生は、ご年配でしたが背がすらりと高く、とてもハンサムな方でした。あだ名は「キューピーさん」でした。ほんとになつかしく、先生のやさしい笑顔を今でもはっきりと思い出します。原忠和牧師(現・梅花学園長)はそのご子息です。
新島襄の「自責の杖」の話と、とび出して止めた学生のことは、子どもの頃から母によく聞かされいましたが、今回このようなことを知る機会が与えられ、私が島之内教会にいる偶然とか、原忠雄先生のこととか、いろいろ思いめぐらして、残りの人生を神様に感謝して、誠実に生きてゆきたいと思います。
神の愛 人のなさけに
守られて
仮死にて生まれし
われ八十路越ゆ
中島絢子
金子みすずさんという童謡詩人、彼女は1903年、山口県生まれで、1930年、わずか27歳の若さで生涯を閉じた人です。数少ない文字の中に心をゆさぶる歌、しみる歌、ほほえましい歌・・・など、心を動かす歌がたくさん残されています。わたしはこの人の歌が気に入っています。
特にいつも口をついて出てくる歌に『私と小鳥と鈴と』
『わたしが両手を広げても、お空はちっとも飛べないが、飛べる小鳥は私のように地面(じべた)を早くは走れない。
私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、あの鳴る鈴は、私のようにたくさんな唄はしらないよ。
鈴と小鳥とそれから私、みんなちがって、みんないい』
(原文のまま)
きっとそれぞれ、役目があることを歌っているのでしょう。わたしは最後の「みんなちがって、みんないい」の心が打たれるのです。
自分との生き方や環境に不安を覚えたり、「なぜ私?」と不満をもったり―、決して自分を肯定し続けて生きることはできないものです。
以前、教会学校のお手伝いをしていた時、多くの子どもたちの中で、さまざまな性格の子と出会った。その中に問題を抱えながら、それでも休まずに教会に来ている子どもがいました。まわりの子どもたちには迷惑をかけていたかも。
しかし、その子は決して教会学校を休まない。不平を言わない、そんな時、わたしは、ある歌を聞かせた。
『どんなに小さい小鳥でも、神さまは愛してくださる」って。イエスさまのおことば♪―」
その後、その子どもは、どんなにか嬉々として歌ったことでしょう。「小さな者を愛される主」と出会える喜びを、この子どもは体験したことだろうと、心からわたしは喜びました。
わたしたちが生きている中で、納得できないこと、受け入れられないこと、苦しい思いをすること、病であれ、生活であれ、さまざまな体験をする中で、Wどんなに小さい小鳥でもーWましてや”どんなに弱いわたしでもー”と言い換えることが許されるなら、どんなに救われることでしょう。
聖書の中には、慰めのことばがいっぱい詰まっています。どのことばも、このいと小さき者を慰める、それは決して他人との比較ではなく、人、それぞれのもつ弱さ・みにくさ・悲しさーは、その人の与えられた救いです。だから、どんなに小さな小鳥でもーであります。
聖書の中に、「見よ、わたしはあなたをわたしの手にひらに刻みつける」とある(イザヤ49・16)。
いと小さき者、名も知られていない者の存在を知っておられる主が「あなたを刻んだ」とある。これほど幸いなことがあるでしょうか。わたしの存在はすでに知っておられる。神は弱い者をも「名を刻んで」覚えていて下さる。感謝すべきことを、ここで感じるのです。
人、それぞれの役割が違います。「わたしなんか〜」と自己否定より前に「名が刻まれている」存在、感謝のほかありません。
また「私の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43・4)とあります。このままのわたしでよいのだ。なぜなら、「神の手にもうすでに名が刻まれているのだからー」と。
聖句を通して、また金子さんの歌から、いつもこのことを想い起こします。神に覚えられているこのわたしは「みんなちがって、みんないい」と受け入れられていることに感謝するほかありません。
今日も明日も”弱さを誇りつつ生きていきたい”と思います。
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